2008年05月10日 00:00 |[あとで読む]
ちょっと気張った、高めのランチを出すレストラン。対面には、会社訪問にやってきた21歳女子大生が座っています。何を話してあげたらいいのか、何を聞かれるのか。ちょっとどきどきした気分で、お手ふきの封を開けたところで、女子大生が口を開きました。
「あの、転勤ってあるんですか? 私、家族とか友達も大切にしたくて」。
さて、この一言に何を感じるでしょう。
「今流行のワークライフバランスってやつか。最近の学生はしっかりしているな」でしょうか。
それとも「OB訪問でいきなり私生活の話? 仕事をなめんな」でしょうか。
前職までであれば、後者寄り。現在は前者。
本来であれば生活時間の中に労働時間が包括されているわけで、生活の豊かさを求めるために労働しているとも言えるわけです。労働によって生活が浸食されていくことが当たり前がと思ってしまう認識の方が異常であって、労働していく中で徐々に麻痺していってしまう感覚なのでしょうね。
例えば、「ワークライフバランス」や「ダイバーシティ」。最近、雑誌やネットでよく見るようになりました。それを受けて学生たちも、「そうか、仕事と生活の両立を考えるのは当たり前なんだ」と理解して、就職活動に励みます。
でも、当たり前ですが学生たちは働いたことがありません。彼らが真剣にワークライフバランスを考えても、現実とずれたイメージを抱いてしまう。そして、そんな学生たちの考えを、働く環境に適応しきった社会人は理解できません。そして「最近の若者は〜」と嘆くようになる。
「最近の若者は〜」という呪文はエジプトの壁画からも発見されているくらい人類社会にインプリンティングされているわけですが、前提としては年功序列型の考え方で年長者は若者よりもあらゆる面で優れているという奢りが見え隠れします。ところが実際には体力はもちろん、業務遂行能力も30代をピークに衰える一方なわけですから、あとは経験に裏打ちされた人格の部分で存在価値を出していく他ありません。そして人格者の口からは「最近の若者は〜」という抽象論なんて出るわけありませんから、だいたいが自身のコンプレックスや若さに対する嫉妬として判断できるわけです。
当時の私の会話も、今、社会人の視点に立てば、「浮ついた話をしているな」と思えてしまいます。ですが、当時の私たちは“浮ついた話”でも何でもなく、自分の人生がかかった重要な話をしていたつもりでした。
学生と社会人のズレはなぜ起きるのでしょうか。働き始めると、そんなに価値観は変わるものなのでしょうか?
パスカルの言葉に、「人間の小さな事柄に関する敏感さと、大きな事柄に関する無感覚は、奇妙な入れ替わりを示している」という物事の優先順位への矛盾が挙げられているものがあります。つまり日々の業務という「小さな事柄」に流されると、人生やキャリアといった「大きな事柄」を考える余裕がなくなります。そうすると労働者は大局的な思考停止に陥り、残業や転勤に文句も言わずに従う奴隷のような存在になっていくのだと言えます。
とくに日本人は報告書の体裁や命令系統の伝言ゲームなどに時間を費やすことが好きみたいですが、家族や大切な人と過ごす時間よりも大切なのかと考えると、ほとんどの業務が本質的に他の手段によって代替できたり、効率化できたりするものです。そして変化の激しい時代においては、会社の中でセコセコ働いている人よりも社外でアンテナを広げている人の方が成果を挙げられる環境になってきています。
豊かな人生を送るためには、自分の予定表を生活時間から埋めていって最低限の労働時間を設定する必要があります。もちろん経済面で労働時間を減らすことによる収入減などが発生するでしょうが、それは単位時間当たりの生産性を向上させるか、収入に合った生活レベルにするか、2つの選択肢のどちらかを選べばよいのです。
学生が「浮ついた話」をしているのではなく、日本の社会人が病的に「お仕事好き」なだけです。そしてそんな社会人に自分がおかしいということを意識させない日本の社会主義は、崩壊しかかっているとはいえまだまだ根強いんですねぇ。。

コメント
コメントの投稿