[真面目]非常識人を非難するな 

今週号の日経ビジネスアソシエで、ワークスアプリケーションズCEOの牧野正幸さんのコラムが秀逸でした。「“革新”を厭う日本の若者 せめて挑戦者への応援を」ということで、「0→1」を生み出すイノベーションを起こす人をもっと支援しようと書いてあります。

イノベーションを起こそうとする(新興)企業に対して、多くの一流経営者や投資家、顧客は深い理解を示し、応援するケースの方が多いのですが、不思議なことに新卒の学生や、比較的若い社会人ほどイノベーションの担い手に対して批判的です。これは明らかに日本だけに見られる特徴らしい。何だか嘆かわしくないかね?
有識者が「日本にビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズがなぜ出てこないのか?」と問うときの答えが、まさにここにあると思うのです。もちろん、新卒の学生や若手社会人を十把一絡げにする気はない。実際に恐らく30%以上の人は、自らもイノベーションを起こそうとしていると推測される(年間1000人以上の優秀な学生と話をしている私の実感です)。
残りの人は、せめてチャレンジャーたちを心から応援してくれれば、彼らの心の支えになるのだが、実際にはそうではない。「せっかく一流企業に入ったのに、挑戦なんてばかばかしい」とか、「そもそもイノベーションなんて小さな会社には無理」などと言う。



なるほど、自分の周りを思い返してみても、若い人ほど保守的な考え方を持っていたりして個人的には非常に不思議に思ってしまうことが多いです。ここ最近の新卒採用では、名前の通った大企業の人気が高まっているようですし、入社してから3-4年もすると、既存のパラダイムに組み込まれた挙げ句に身動きが取れなくなり、社畜と呼ばれる仕事優先人間に育成されていきます。


そのような保守的な若者がどのような育ち方をしてきたのかといえば、小学校の頃の優等生にありがちなパターンということで非常に納得がいきました。違うやり方をする奴を非難したり先生に告げ口する子です。計算は既存の公式に則って当てはめながら正解を求める、国語は文章をよく読んで作者の考えを文中から見つける、といった偏差値的な教育を受けてきた良い子たちがほとんどなのでしょう。


そんな子にとっては、オイラみたいな絶対にみんなと同じ行動を取らないタイプは見ていて非常にイライラしたことでしょう。何しろ「回れ右」するのも「どうして右から回るんだ?」という根本的なトコから疑問を持ち始め、自分は左利きだから左回りで良いだろうと勝手に決め、最終的には朝礼でわざわざ回れ右をして校庭の奥の長い距離を通って教室に戻る意味がないと考えて校長先生の前を通って最短距離で帰るような子どもです。


そんな子が大人になって悪知恵を付けてくると、日本は税率を世界最低レベルまで落として外資や富裕層の金融資産を呼び込んでキャッシュフローを豊かにした方がトータルで日本の税収は上がるんだ、だから個人は国に税金を払う必要がない、寄付控除で意志のある再分配をしようと主張するようになります。当然大部分の人たちは安易な外資導入に対して違和感を持つでしょうし、ちゃんと税金を払うべきだと考える“マトモな”人たちが多いからこそ世の中が成り立っていることも理解しています。

既存のアーカイブを理解し、応用するのが得意な人(1を100にできる人)と、イノベーションを起こす人(0から1を生み出す人)がいる。「1→100」タイプは今あるアーカイブをいかに間違いなく、速く応用できるかに力点を置いている。
これに対し、「0→1」タイプはアーカイブをそもそも疑い、自分ならではのアーカイブを生み出そうとする。両者は相容れないに決まっているだろう。しかし世界にはこの2種類の人が絶対必要なのだ。どちらが欠けても社会は良くならない。



というわけで自分自身は「0→1」寄りで、既存のアーカイブの価値を増大させていくピラミッド型の組織に合わないことは自他ともに認めているわけなんですが、そういう意味では自分自身は周りの人に恵まれているなと感じます。両親はもちろん教師に怒られようが成績が悪かろうがずっと期待してくれていましたし、友達も何か変わったことがやりたいと思ったらとりあえずオイラを呼んどけ、という立ち位置になっているみたいです。「土下座戦争」とか「北関東大仏ツアー」とか懐かしいな。。


イチローや野茂も、独特なフォームを認めてくれた仰木監督がいたからこそ野球界のパラダイムを変える活躍ができたのでしょう。それは仰木監督が選手やコーチとして苦労した人だからこそ、許容することができたのだと思います。なるほど、若い人ほどイノベーターに対しての許容ができない理由が分かってきた気がします。


インターネットの世界では、2011年の地デジ移行に合わせて大変化が見込まれます。そのときに必要となるのはやはり「0→1」を思考できるイノベーターであって、その人の頭の中からソフトバンクや楽天のような既存サービスのプラットフォームをWebに置き換えただけのITではない、ホントの情報通信産業が出てくることでしょう。あなたの隣の空気を読めない(読まない)変な人が、もしかしたら未来の起業家かもしれませんよ!?

[真面目]アフガニスタンの事件に想う 

アフガニスタンで銃弾に斃れた伊藤和也さん、オイラと同い年なんですね。アフガニスタン復興を支援したいと危険を顧みずにペシャワール会に参画して、8月中旬に帰国する予定をキャンセルした直後での悲劇ということで、大変残念です。


この事件について、山内衆院議員が的確なコメントを述べています。

こういう事件があると、日本では不思議なことに
「自己責任だから自業自得だ」的な批判が起こります。
外務省が渡航自粛勧告や退避勧告を出している地域に、
物見遊山でノコノコ出かけて行った旅行者なら、
そういった批判にも妥当性があるかもしれません。
あるいは、何の準備も予備知識もない素人ボランティアが、
無謀に紛争地に出かけて行った、というケースについても、
ある程度はそういう批判を招いても仕方ないかもしれません。

しかし、ペシャワール会は現地オフィスを持ち、現地スタッフを抱え、
経験も情報も相当に蓄積しているNGOです。
ペシャワール会のように実績のあるNGOは、
危険を承知の上で、リスク管理を十分に行いつつ、
リスクを承知で人道援助活動を紛争地で行っています。
アフガニスタンでは各国のNGO関係者が、
過去に数十名亡くなっています。
そういうことを知った上で、それでも現地で活動を続けています。
そういったプロの援助機関関係者が拉致された場合には、
日本政府としても全力で解放交渉に取り組むべきです。

また、海外で商社員等のビジネスマンが誘拐されても、
誰も「自己責任だから自業自得だ」という批判はしません。
ビジネスマンなら批判されず、NGOスタッフなら批判される、
というのであれば、まったく不当な批判です。



我々日本人が海外旅行などに行った際に、温かく迎えてもらえるのはこのような草の根での善意活動が受け入れられた結果です。日本政府がODAを何億も拠出したとか、日本企業が現地で何百人も雇用する工場を造ったといった活動だけでは、決して日本人に対する心象が向上することはないでしょう。


もちろんアフガニスタン武装勢力にとっての正義は存在し、その正義を脅かす異邦人として伊藤さんが狙われたという構図であれば、日本政府がインド洋で給油活動を行なう=アフガニスタンの混乱を助長する行為として、さらに現地の日本人が狙われるケースは増えてくるかもしれません。


我々にできることは、伊藤さんの遺志を受け継ぎ、日本が世界から賞賛されるような平和で親切な国民性を持った国となっていくことです。伊藤さんの利他の精神を1人1人が発揮して、よりよい日本社会を構築することが、やがてアフガニスタンにも還流していくことになるでしょうね。


伊藤和也さんのご冥福をお祈りいたします。


[真面目]日米交渉から観た太平洋戦争 

63回目の終戦記念日を迎え、太平洋戦争について様々な資料を読んでみました。中でも日米交渉から開戦に至るギリギリの折衝について、公文書が公開されていたので非常に興味深く考察してみたわけです。

インターネット特別展 公文書に見る日米交渉〜開戦の経緯〜

結果を知っている我々からすれば、圧倒的な国力を誇るアメリカに戦争を挑むなんて馬鹿げていると思ってしまいますが、そこに至るまでの経緯はさまざまな要因が複雑に絡み合い、中には山本五十六連合艦隊司令官のように、戦争反対の立場ながら真珠湾攻撃を指揮したという個人の葛藤が数多くの局面に感じられます。


満州国をはじめ植民地政策を推し進める陸軍といざ開戦となれば矢面に立たされる海軍の確執は、もし太平洋戦争が行なわれなければ内戦に発展していたのではないかと言われるほどでした。南下を進める陸軍にフィリピンを植民地としていたアメリカが脅威を抱き、日本に対して石油などの資源輸出を停止したことによって日米関係が急激に悪化しました。


事実上の開戦への最後通牒となったハル・ノートに関しても、もともとは日米の間で戦争を回避するための妥協案に関する合意文書という位置づけであったものが、諜報戦略の中での行き違いによって開戦やむなしという方向に傾いてしまったという経緯が見て取れます。


これらを見ていて思うことは、20世紀というのは何と“異常”な世紀であったのか、ということです。2度の世界大戦にアメリカ、ソ連がベトナム、アフガニスタンで泥沼のゲリラ戦を繰り広げ、結果として軍備による示威行動が無意味であるという結論に達するまで100年かかったというのがこの世紀だったのでしょうか。


残念なことに、21世紀になってもアメリカやロシアは局地戦を繰り広げています。戦争はテロへと姿を変え、時に一般市民を巻き添えにしながら悲劇は繰り返されています。アフリカでは民族主義による政治的に不安定な状況が広がっており、経済発展どころではない悲惨な格差が現実となっています。


中国でオリンピックが行なわれている間に、このような資料に触れられたことは個人的には大きな転機となりました。日本という平和を享受している国がどのような歴史の上に成り立ってきたのか、日本人1人1人が平和の意味を認識して外国の模範となるような国家にしていくこと、それこそが終戦から立ち直った奇蹟を支えたモチベーションに違いありません。


[真面目]最近の若者 

最近の若者は、、なんて言い始めると自分も年を取ったなと思いますが、フローレンス駒崎さんのブログで以下のようなエントリがあって、思わず共感してしまいました。

【日記】最近の若者に思うことには
そんなコミュニケーション下手の自分も時に交流会的な
ところに行くと、最近学生が「社会起業家を応援したいんです」
と声をかけてくれるのだが、それに若干の違和感を感じる。



彼らの「社会起業家を応援したい」という思いは、社会貢献をしたいとか役に立ちたいとかいった利他精神というよりは、「社会起業家って何だか格好良くない?」というようなファッションやトレンドの一部として捉えられているカンジがするのです。恐らく、社会を変えたいとかこんな社会にしたいといったグランドデザインもなく、ただ何となく流行りの先端にいる人たちの輪に参加してみたいという野次馬根性が見えてしまいます。


もちろん入り口はそれでもよいです。中学生の頃に音楽を始めたりスポーツに熱中したりするのも、突き詰めれば異性にモテたいという欲望が横たわっていることでしょう。不純な目的で始めた活動が、特定分野で上達する喜びや心身の成長に繋がることで自己承認できるようになるのです。それと同様、社会起業家のそばでその人間性や組織の価値観に触れることで何かを感じるのは若い人にとっては非常に有意義なこととなるでしょう。


逆にいえば、これくらいの主体性がなければスキルも経験もない学生の“応援”なんて余計なお世話でしかなく、とりあえず就職活動で箔をつけるためにやっとこうとか、なんか面白そうな人たちがたくさんいてネタになりそうだとかいった目的での参加は迷惑でしかありません。


確かにこれまで学校教育で成績という画一的な評価基準によって、カリキュラムを与えられてきた学生たちにいきなり「社会に対して何がしたいの?」なんて質問をするのは可哀想かもしれません。その自分探しの材料として、社会起業家を見てみたいという欲求も理解できます。


それでも学生という時期においてもっと勉強すべきなのは、具体的な方法論ではなくて未来を予見するために必要なグランドデザインや世の中を仕組みを学ぶもっとマクロな視点だと思うのです。ミクロな視点なんて企業に就職したりどこかの組織に所属すれば自然と身に付きます。


それよりも例えば、「社会は若者が損をするようにできている、その原因は選挙での若年層の投票率が低く、政治家が若者向けの政策をするメリットがないから」といった原因と結果の考察であったり、「格差社会とか言われているけど、日本の所得水準は世界の上位4%であり、上位1%と上位4%の格差云々でごちゃごちゃ言ってるだけ」といった世界的な視点であったり、世の中の仕組みを学んだ方がその中で自分が採るべき指針が見えてくることでしょう。


世の中の仕組みを勉強すれば、必ず「あれ、これおかしくねぇ?」というような疑問点が出てきます。社会起業のような活動を始めるのは、そんな根源的な思考が生まれてからでも遅くはないのです。若者よ、様々なことを吸収して、自らが進むべき道を見つけてみてください。迷わずいけよ、いけばわかるさ。

[真面目]メニューを選ばない人たち 

レストランなどに行くと、ロクにメニューも見ずに一緒に来た人と同じものを頼む人がいます。だいたいが家族連れのお父さんに多いのですが、メニューを選ぶ権利を奥さんや子どもに明け渡して、自身はとりあえずビールを頼んで流し込むといったパターンですね。


個人的には、他の全員が同じ注文をしようが1人で別のオーダをするようなタイプなので、メニューを見ないで他者の意思決定に従う感覚がまったく分からないのですが、逆にオイラのオーダはいつも美味いから信頼できると言って敢えて同じオーダをする友人も居たりします。


チャンスの前髪という言葉があります。幸運の女神には前髪しか生えていないので、それを掴み損なうと二度とチャンスは訪れないという格言です。他者に判断を任せるということは、たぶんこのようなチャンスが訪れても気づかないのではないかと思ってしまいます。人生は選択の連続ですが、メシを食べる程度のことすら選ぶのを面倒臭がっていたら、いざ自分の人生を左右するという選択のときにどうするんだろうと心配になってしまうのです。


というか単純に、人生80年として一生のうちに食事する機会は8,000回余りでしょう。オイラ自身はすでに3,000回は消化しているハズで、残り5,000回しか食事する機会がないのです!日本全国の都道府県でも47あって、それぞれの名産品ならば少なくとも5品はあるでしょう。美味いラーメン屋だって年間100店舗は入れ替わったりします。


そうやって考えると、5,000回という残りの食事回数がいかに少ないことか。。この貴重な機会を無自覚に使っていかないためにも、メニューぐらいは自分で選んで新しい発見をしていきたいものです。